ファンレターを書いた

今日は時間があって、少し前から書きたかったファンレターを書いた。最近面白いと思って読んでいる漫画の作者へ。

手書きで便箋に4枚。2時間ぐらいかかって書いて、時間を置いて読み返したりすると出す気がなくなってしまうのですぐ投函しに行った。思い返してみるとなかなかうっとおしいこともたくさん書いたけれど、ファンレターなんて好き好き!で出す暑苦しいものなんだから、いいのだ。読み直したり我にかえるのは厳禁である。

 

普段手紙は書かない。年賀葉書ぐらいだ。でも、ファンレターはメールより手紙で出したかったのでそうした。
メールを送るより手書きの方が、色々効く(編集部に対しても)というのをどこかで小耳に挟んだから…というのも理由の半分ぐらいは占める。しかし、一番の理由は、会ったことがない人に向かって創作物の感想を伝えたいからというところにあった。

書きたいことはたくさんあった。だからものすごく長文になるだろうと思っていて、実際B5×4にまあまあびっちり書いた。
それをメールで送るとどうなっただろうか?
私はキーボードなら結構いくらでも長い文章が書けるので、推敲しながらもっともっと長い文章になっていたと思う。

手書きだと書き直せない(私は手紙の下書きはやらない)ので、頭の中で書きたいことを覚えておきつつ書いていくが、それでも取りこぼしは出てしまうので短くなる。短くなるのは、手も痛くなるし画数の多い文字が続くと疲れるし自分のきれいとは言いがたい文字が目に入るのもげんなりするし、という面もあるけれど。

 

活字で届く長文と手書きの長文を思い浮かべたら、前者はちょっと得体が知れなくて気持ちが悪いなと、そう思った。
A氏は私のことを知らないのだし、感想が届きますよという前触れを受けているわけでもない。メールのテキストだとちょっと恐くないか?と思った。手書きだと伝わるテンションやニュアンスはあるから、手書きの方が人となりは伺えて、安心して読んでもらえるような気がしたのだ。

 

余談だけれど、手書きだと伝わるものは、要約すると気持ちだ。
私の仕事はWebデザイナーだ。手書きの原稿を打ち直してデータにしていくことはよくある。そういう時に毎回思うのだ、手書きには気持ちが乗っているけれど、テキストにすると死ぬなと(それをデザインするのがデザイナーだという問題は別の話だ)。

ほんの少しの字間の開きや文字と文字の位置バランス、!や「」の書き方、それから今なら顔文字やにこちゃんマーク(って今もこう呼ぶのだろうか)も、手書きだと有効に感情を伝えることができる。

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感想については、思うところがある。

私は若い頃、同人誌を出していた。いわゆる二次創作も完全な創作もどちらもやっていたことがあって、ネットのない時代も覚えている。
ネットが普及してからは自分のサイトも作ってサーチに登録してジャンルの人と交流をして…と色々楽しくやって、地方在住でも楽しめていい時代になったななどと思ったものだ。自分の住所を全国公開して文通相手を作ったり本を売ったり買ったりしていた時代は温かくてよかったなとも思ったけれど。

 

本に対しての感想をたまにもらうことがあって、幸い私に届く感想は皆好意的なもので(狭いジャンルだったこともあるのか知った方が多かったのもあるかもしれない)、それはもう嬉しかった。褒められて嬉しくて次もがんばろうと思ったし、何より嬉しかったのは、自分の描いたものに対しての理解(私の意図とは違っていても)や自分の感じたことを伝えてくれることだった。自分の描いたものが誰かにちゃんと届いていて、目に触れて、セリフは読まれ、何がしかの感慨を覚えてもらうことができた。分かる人だけ分かればいいと仕込んだ小ネタやパロディに気づいてもらえた時も。
本当に嬉しかった。今でも思い出すと胸が暖まる。


その経験は私の人生を少し変えた。
思うことがあればできるだけ言うようになったのだ。思うことがあればというか、褒めたい、いいと思ったことがあればというか。
自分も含めて、人は意識していないところ、自分ではいいと思っていないところが光っているものだ。だから何か言いたいことが出てきてそれを伝えたら、当人にとても喜ばれたり驚かれたりすることが多い。
職業柄それはとても役に立っている。月並みだけれど、コミュニケーションって大事だ。

 

 

覚えていようと思ったって、忘れてしまうものだ。
今日時間があってファンレターを書いて出すことができて、良かった。かなりひとりよがりになってしまった気がして作者の方に申し訳ないような気持ちもあるけれど、もう投函してしまったからな。

 

晴れているし洗濯も全部できたし、いい日だ。