DPZの松本さんの記事

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DPZを、まめにではないにせよ長いこと読んでいる。
好きなライターは何人もいて、松本さんもその一人。少し皮肉げで、ぽかーんとした俯瞰性を感じる。


DPZはライターの得意なことを伸ばす方針がある、というようなことをどこかで読んだ記憶があるんだけど(たしか林さんの言だったような)松本さんは寄稿途中から山登りにハマっていって、そっちの記事が増えていった。こういう風に、個々の好みで「サイト内に○○系の記事が増えるようになる」と変化していくのは面白い。変化させようとせずにした変化。

今回の記事は山登りではないけど歩いて渓谷へ行く内容で、結構長く、文章量もしっかりと書いてある。
なかでも、川に流された人達についてのなかなか辛辣な言及があったり、その土地へ行くにあたっての警告がしっかりと書いてあるのが良い。マイナスなこと、攻撃的なことも排除はしないというのが(これはDPZが媒体として歴史があって、経験の裏打ちによる判断ができるということの現れでもあると思う。おそらく校正段階でそれなりに修正もあるんじゃないか)。

DPZは面白い読み物サイトだと思ってはいるけど、たまに、というよりは多めの頻度でまともに心に来るものも混ざっている(ストレートに真面目っぽいのを多く集めた読み物サイトは地球のココロとか別枠用意したの、賢いなあと思う)。大人って感じで好きだ。リアルな大人。


ついこの間、小野法師丸さんの寄稿が終わったと本人のツイッターで見かけた。面白い記事が多かっただけに残念ではあるけど、13年の長きにわたってよくあれだけコンスタントに楽しいものを読ませてくれたものだと感謝をしたい。

彼に限らず、寄稿を終えていったライターは沢山いる。
始まったことはいつか終わるし、それはそれでそういうものなのだと、最近思えるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道へ旅行に行ってきた

札幌周辺を巡ってきた。とても楽しく、充実した旅行になった。

北海道は地元に比べるととても寒く、上着が手放せない。さすがと思ったけれど、北海道の人たちの服装にはばらつきがあったから、急に冷え込んできたのだろうか。

旅行中ずっと思っていたことがあって、それは日本中の色んなところに人が住んでいて、それぞれに歴史と事情があってその土地にいて、個々の人生を生きているということだ。
当たり前のことなのだけれど。
旅行中の私の目には、北海道に生まれてそこで生きていく人生はとても遠く見えた。悪いということではなくて、ただ遠い。関わることのない人の数の、なんと多いことか。茫漠とした気持ちを抱え、市街地や郊外を眺めながら移動するあの感覚は、ただ不思議だ。哀しみを内包しているけれど、実際に悲しくはない。

地元の開発された山とは違い、山肌に住宅のない広い土地。サイロの見える牧場や、煙突を備えた家。二重になった玄関。積雪用の標識。
色んな土地があって色んな人生がある。

土地土地にそれぞれの特徴や武器や退屈があって、ルーチンの中にそれぞれの文化ができていく。偉大でもあり偉大でもなんでもなくもあり。

北海道へ行ったことで、北海道に親しみを覚えている自分がいる。思い入れの土地が遠くにあるのも悪くないなと思う。

山本二三

しばらく文章を書かない生活をしていると、何を書きたかったか忘れてしまって、どんどん書こうと思ったものが遠ざかってしまう。文章の書き方もいまひとつ思い出せないというか、書きたいことをうまく表現できないようになっている気がする。


先日夫と、山本二三展を見に行った。

もののけ姫のあの黒い鏡面になった水面や、水に浸かった苔や水草、土、日本の山。それに、観に行った時には気づかなかったけど(主人公にいらいらしたことぐらいしか覚えていない)時かけの背景がものすごくきれいだった。時かけの方は建物や教室の室内なんかもあるから、人工物特有の反射や、それにエッジのかりっとした線がとても良かった。
人間のアナログな仕事は美しいなあと思う。

昔読んだ小説で、PCの音が人間の奏でる音楽とまったく同じになっても、それでも人の手によるものを好むだろうと登場人物が言うシーンがあった。そのことを思い出す。

定規を使ってもコンピュータ、もっといえばモニタの中にある直線ほどには直線でないのがアナログだ。筆で描いたものが不定なにじみや色の広がりを見せ、筆致のランダムさが残る。
と、今は思う。
今でさえ描法によっては見分けのつきにくい絵があるから、将来的にはもっと分からなくなるんだろうなあ。
ずっと見分けのつけばいいなと思う反面、それはやっぱり難しいだろうなとも思う。よりリアルに、と技術が追い求められるだろうから。

しかし、あれだけ描ける人でもパースが狂っていたりすることがあって(アニメ用のデフォルメではない箇所のように思った)なんだかそこが安心させられる。不思議なものだ。

 

受験生だった頃にもよく思ったけど、描ける人はどんなふうに世界が見えているんだろうか。私とは違う諧調で、より立体感をもって見ているような気がする。

 

ネタに走らない、人に見せてあわよくば面白がってもらおうという意図のない日記は、ちょっとつまらんな。ミクシィは面白かった、若くて痛々しかったけど。

引っ越しと結婚

引っ越してきて、婚姻届も提出し、晴れて夫婦になった。
提出は夜間に行ったので警備員さんに見てもらい、おめでとうと言われる静かなものだった。不思議な感じ。

私自身の中身は何も変わらない。でも名前が変わるに当たって色々手続きをしないといけないから、これからしばらくばたばたしたり慌てたりして、段々なじんでいくんだろうと思う。

・職場に結婚報告と名前の変更手続き
・郵便局に変更手続き?
・新しい姓の印鑑を作る
・銀行口座の名義変更、これは急がなくてもいい
・クレジットカードの名義変更、これも後回し
今ぱっと思いつくところではこれぐらいか。

友達にも順々に報告をしよう。

 

引っ越しで友達のいない土地に来たのがすがすがしいのが、自分でも少し意外だ。なにかあったからって会って報告したりすることができないのが気楽なんだと思う。
インスタ越しに見る程度でいいな、私は。
薄い縁しかないのかと自分を悪く思うこともあるけど、友達の多い人と比べて羨ましがる日を除けば、自分の今の行き方は気に入っている。そのことを忘れないようにしようと思う。

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友達と言えば、先日集まった時に結婚式を挙げないことについてを諌められた。
こちらとしても悩むところではあるけど、挙げた方がいいよ、だって式の色々を決める中で相手の人間性とかぶつかるところが分かるから。という趣旨で諌められても頷けない。

そこで初めて人間性を知るのか、とか言うと極端すぎるんだけど、しかしそういうように思う。テスト前にことさら勉強しなくてもいいように普段からやっておくみたいに、それまでの付き合いで知っておくようにするべきなんじゃないかと思うし、またそこで揉めたら結婚やめるのかよ、とも思う。

後から揉めたら「だから言ったのに」となるんじゃないかとそこまで強く否定はしなかったけど、式を挙げる挙げないは人それぞれだろう。

友達付き合いのことを考えるいい機会でもあるなあ。

 

人付き合いのことになると、私は嫌味になったり意固地になることが多い。気をつけないとな。