母について

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この漫画を読んで泣いた。
自分の母を恨むわけではないのだけど(仕方ないという気持ちが強い)、母は私のことを信頼してはくれなかったなと思って泣いたのだ。

私は長男の家に生まれた長子で、年子に弟がいる。古い体質の家で古い体質の母で、下に長男(古臭い言い方をすると嫡男)がいる姉として少し屈折して育った。いくら頑張っても最後は弟が持っていく、という実感があった。

それと関係があったのか、私の性質を見てそうした方がいいと思ったのか他に理由があるのかわからないが、母は私をあまり表立って褒めなかった。というか、調子に乗らないようにというようなたしなめがあった記憶がある。
今この歳になって、全面的に褒めてほしかったしあんたはいい子だあんたなら大丈夫だと言ってほしかったと思う。明文化できないまま、そう思い続けていたことに気づいた。

 

私はたしかに、その場を盛り上げるために滑ってみせたり自分を下げたりすることがある。母は気づいていたかわからないけれど、その行為には、仲が悪くて冷戦状態だった両親と囲む食卓を楽しくしたくてやっていたことが根底にある。

しかし、そうやってチョけていたのは、母には危なっかしく見えたり「この子はちょっと抑えなければ」と思わせたりしたのかもしれない。自分のことは全然してないのに友達のことを手伝ったりとか、しっかりしつけなければと思われていたのだろう。私はそうすれば褒めてもらえる・感謝してもらえるとばかり思っていいことをしていたつもりだったけど。

 

思春期、おしゃれしたい気持ちやきれいになりたい気持ち、友達と同じものを持って楽しく遊びたい気持ちを分かってもらえなかったこともあるのかもしれない。
窮屈だったし、母の希望に沿えない自分への嫌悪感もあった。自分が可愛くない自覚があったから余計にそうだった。母と買い物に行く同級生や、母と趣味や芸能人や好きなものの話ができる同級生が羨ましかった。

 

したいことを肯定してもらえていたら、漫画の中のように大丈夫だよと背中を押してもらえたらと思って泣いた。自分の望むようにしてもらえることなんてそうそうないのは分かっているのだけれど、それでも涙が出た。母が私に愛情を注いでくれたと理解してはいるから、その愛情で満足できないことへの罪悪感もある。ああしてほしかったこれが嫌だったと母に今更言っても悲しませるだけだということも分かっている。自分が子供を持つことがあれば、自分から子供へだって子供の望むものを望むだけ望む形で与えられるわけないということも。

 

気持ちに折り合いはついていない。なんとかするとしたら、長い時間をかけてほぐしていくしかないのだろう。

 

 

宝塚を観てきた

縁遠い、敷居が高いと思っていた宝塚歌劇に、機会があって行ってきた。舞台や演劇は普段全く観ず、宝塚に関する知識もほぼない状態で、加えてあえて下調べもせずに。で、色々思ったので忘れないうちに書き留めておこうと思う。観劇のことも宝塚のことも全然知らないシロートの感想ではあるけれど。
演目は『ベルリン、わが愛』『Bouquet de TAKARAZUKA(ブーケ ド タカラヅカ)』で星組公演。午後の部で席は一階の前の方。

 

宝塚への憧れはなかったしハマる予感はしないままだが、それでも非常に面白く、素直に楽しめた。宝塚というと一人一人の演者(スターと言うんでしょうか、用語はよく分からない)に対するファンが多いという印象を私は持っていて、そういう楽しみ方が王道なのかな(本音を言えば、そういう目で見られなければ仲間に入れない雰囲気なのかな)と思っていたんだけども、舞台全体を通して一つの美しいエンターテイメントとして完成されていて、全く無用の心配だった。

 

長く愛され続けるものには、それだけの芯がある。重みがあって強い吸引力がある。実際に行ってみてひしひしとそう感じた。

 

DVDで観るのでは、多分私はさほど良いとは思わなかったと思う。考えてみれば当たり前だが、画面は平面だが実際の舞台は3Dなのだ。迫力が違う。すぐそこで立体が動いていて気配やかすかな振動が伝わってきて、耳には大ボリュームの歌やセリフや音楽が響く。会場は(今回行ったのは宝塚大劇場の方)広く暗くて没入感が凄い。
この没入感というのがポイントで、家でDVDを借りるなりなんなりしていたら、女性が男を演じることとメイクが強烈なことが私にとってのネックになったと思う。どちらも『突っ込めてしまう』ところで、そこ起点で我に返ってしまったのではないかと。しかし劇場のあの、スッと一種異様な空気を受け入れられる雰囲気がそのネックを潰した。感覚としては物陰からそっと見ている感じというか、観ている私は存在が薄れていって、ずずっと物語世界に沈んでいけるのだ。

 

突っ込めてしまう、というのは、ファンにとっては失礼な話かもしれない。でも私はそう思った。劇場来て観るので良かった、心置きなくどっぷりいけたと安心したのだ。今回の観劇後ならDVDをかなり楽しめるとも思う。ライブでもスポーツでもそうだけど、見に行った現場では見えないところがDVDではがっちりきれいな画でカバーされているのが楽しい。

 

ミュージカルは(宝塚が常にミュージカル仕立てなのかすら知らないが、今回はミュージカルでした)あらすじにもあるようにナチスの陰が忍び寄るベルリンが舞台。そこで映画作りに情熱を燃やす若者たちと恋と…という感じで、歌も踊りもたくさん、舞台装置もたくさん。

正直に言えば主役を務める方による開演のアナウンスが流れた時、うわ、この発声すごい違和感あるな。男役って全部こうだよな、面白く観られるかな…と不安になった。始まって少しの間は違和感は残っていたが、序盤で気にならなくなって(ソロの歌声がものすごい重量で納得させられた)、途中からは男性だと自然に受け入れることができた。かっこいいとさえ思った。

これはこちらが飲み込み方を覚えたというのが一つ、それともう一つは演者の方々が『きちんと男性っぽかった』からだと思う。仕草や喋り方で男であることをしっかり主張していて、女性が演じていることを忘れるのだ。
だから、宝塚は『見立て』ができなければ楽しめないだろうと観ていて感じた。無垢で物語の中に完全に入り込むような純真さか、約束事を約束事として愉しめる大人の成熟が必要とされると。

 

宝塚はド級のシリアスしかやらないと昔は思っていたが、どうも違うようで(ルパン三世のポスターを見かけた時に、おや?宝塚って面白い感じのもやるの?と衝撃を受けた)今回も明るい笑いどころが結構あった。

すてきだ、と思うのが、笑いどころも愛嬌があってさりげないところ。ドッと沸かせるのではなくて笑いのさざ波を起こす程度で、丸みがあった。これは宝塚に限らず舞台全般がそうだろうと思うのだけれど、強調される喋り方や動作もあたりがきつくないと感じた。すべて女性だからだろうか?

そういえば、なんか不思議な感じがする…と観ながらその原因を考えたら、男性がいるのに聞こえてくる合唱が女性の声で柔らかく澄んでいるからだった。目と耳から違うものを受け取っている混乱が少しだけあって、幻惑されているように思えた。

 

男性がいる。
厳密に言えば架空の男性が今ここに存在している、と私は思った。伝わりにくいかもしれないが、自分の感情を探ったらそういう結論になった。男性のイメージエッセンスを抽出して男役に混ぜて美しい存在になったモノ、本物の男じゃないのは分かってる、だけどあそこには男性がいるぞと感じる…という感じ。とても不思議だった。

ナチスの軍人なども出てくるのだが、いやそのきっぱりと差別化された男性っぽさはすごかった。なのに恐くはないというのもいいのかもしれない(私は男性が怒鳴ったりするのがとても苦手、演技であっても。だから余計そう思う)。

 

眠くなってきたのであと箇条書きで。

・生演奏だとは知らなかった。演奏は私の席からは見えない、奈落的に下の方でされていた。贅沢だ。
・スワロ、スパンコール、ラメ、グリッター…きらきらが目にとても美しい。ミラーボールもものすごくきれいだった。
・レビューのラインダンス半端ない。
・主役を引き立てるためにモブが静止するシーンの静止画感が凄い。気づいたらそちらに見入ってしまった。
・一人一人の見分けがつかない。が、今の人の動ききれいだなとか今の人かっこいいなというのは瞬間的にだいぶ思う。
・滑舌って大事
・劇場内に軽食、和食、洋食、ソフトクリーム(ジェラートだったかも)などわりと多い。飲料の自販機もあった気がする。
・グッズショップ多!
・宝塚を好きな人が好きそうなもの、も売られている。猫モチーフとか花柄とか。
・劇場内に郵便局…?!
・女子トイレが凄まじい。個室数がサービスエリアなんか目じゃない上に一方通行で、入り口と出口が決められていて、さらに化粧直しエリアががっつり完備な上にほんのりロココ感。大ファンの方の前では一番きれいでいたいファン心への理解よ。
・男性客が予想していたよりずっと多かった。ほとんどいないぐらいかと思っていたら、15%ぐらいは男性だった印象。奥様の付き添いという年齢ではない若い人もちらほら。
・全体的にうるっさい人がいない、騒ぐ子供もいなかった。
・服装はややおでかけ寄りのカジュアル。膝丈フレアスカート率が高い。ラフな服の人は、季節のせいもあってか見なかったように思う。着物の人も見かけた。

 

また行きたい。

ファンレターを書いた

今日は時間があって、少し前から書きたかったファンレターを書いた。最近面白いと思って読んでいる漫画の作者へ。

手書きで便箋に4枚。2時間ぐらいかかって書いて、時間を置いて読み返したりすると出す気がなくなってしまうのですぐ投函しに行った。思い返してみるとなかなかうっとおしいこともたくさん書いたけれど、ファンレターなんて好き好き!で出す暑苦しいものなんだから、いいのだ。読み直したり我にかえるのは厳禁である。

 

普段手紙は書かない。年賀葉書ぐらいだ。でも、ファンレターはメールより手紙で出したかったのでそうした。
メールを送るより手書きの方が、色々効く(編集部に対しても)というのをどこかで小耳に挟んだから…というのも理由の半分ぐらいは占める。しかし、一番の理由は、会ったことがない人に向かって創作物の感想を伝えたいからというところにあった。

書きたいことはたくさんあった。だからものすごく長文になるだろうと思っていて、実際B5×4にまあまあびっちり書いた。
それをメールで送るとどうなっただろうか?
私はキーボードなら結構いくらでも長い文章が書けるので、推敲しながらもっともっと長い文章になっていたと思う。

手書きだと書き直せない(私は手紙の下書きはやらない)ので、頭の中で書きたいことを覚えておきつつ書いていくが、それでも取りこぼしは出てしまうので短くなる。短くなるのは、手も痛くなるし画数の多い文字が続くと疲れるし自分のきれいとは言いがたい文字が目に入るのもげんなりするし、という面もあるけれど。

 

活字で届く長文と手書きの長文を思い浮かべたら、前者はちょっと得体が知れなくて気持ちが悪いなと、そう思った。
A氏は私のことを知らないのだし、感想が届きますよという前触れを受けているわけでもない。メールのテキストだとちょっと恐くないか?と思った。手書きだと伝わるテンションやニュアンスはあるから、手書きの方が人となりは伺えて、安心して読んでもらえるような気がしたのだ。

 

余談だけれど、手書きだと伝わるものは、要約すると気持ちだ。
私の仕事はWebデザイナーだ。手書きの原稿を打ち直してデータにしていくことはよくある。そういう時に毎回思うのだ、手書きには気持ちが乗っているけれど、テキストにすると死ぬなと(それをデザインするのがデザイナーだという問題は別の話だ)。

ほんの少しの字間の開きや文字と文字の位置バランス、!や「」の書き方、それから今なら顔文字やにこちゃんマーク(って今もこう呼ぶのだろうか)も、手書きだと有効に感情を伝えることができる。

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感想については、思うところがある。

私は若い頃、同人誌を出していた。いわゆる二次創作も完全な創作もどちらもやっていたことがあって、ネットのない時代も覚えている。
ネットが普及してからは自分のサイトも作ってサーチに登録してジャンルの人と交流をして…と色々楽しくやって、地方在住でも楽しめていい時代になったななどと思ったものだ。自分の住所を全国公開して文通相手を作ったり本を売ったり買ったりしていた時代は温かくてよかったなとも思ったけれど。

 

本に対しての感想をたまにもらうことがあって、幸い私に届く感想は皆好意的なもので(狭いジャンルだったこともあるのか知った方が多かったのもあるかもしれない)、それはもう嬉しかった。褒められて嬉しくて次もがんばろうと思ったし、何より嬉しかったのは、自分の描いたものに対しての理解(私の意図とは違っていても)や自分の感じたことを伝えてくれることだった。自分の描いたものが誰かにちゃんと届いていて、目に触れて、セリフは読まれ、何がしかの感慨を覚えてもらうことができた。分かる人だけ分かればいいと仕込んだ小ネタやパロディに気づいてもらえた時も。
本当に嬉しかった。今でも思い出すと胸が暖まる。


その経験は私の人生を少し変えた。
思うことがあればできるだけ言うようになったのだ。思うことがあればというか、褒めたい、いいと思ったことがあればというか。
自分も含めて、人は意識していないところ、自分ではいいと思っていないところが光っているものだ。だから何か言いたいことが出てきてそれを伝えたら、当人にとても喜ばれたり驚かれたりすることが多い。
職業柄それはとても役に立っている。月並みだけれど、コミュニケーションって大事だ。

 

 

覚えていようと思ったって、忘れてしまうものだ。
今日時間があってファンレターを書いて出すことができて、良かった。かなりひとりよがりになってしまった気がして作者の方に申し訳ないような気持ちもあるけれど、もう投函してしまったからな。

 

晴れているし洗濯も全部できたし、いい日だ。

京都 五条坂陶器まつり2017へ行ってきた

陶器市にはかねがね行ってみたいと思っていたのだけど、一番近くて規模も大きそう、日程的にも楽なのでついに希望が叶った。
ネットをざっと見ても私の欲しい前情報はあまりなかったので、ここに書き残しておこうと思う。

私が行ったのは二日目の火曜日。初日は台風で中止だった?途中で取り止めしていた時間があったのか?いまいち分からないがそういう感じで心配していた。火曜日も京都駅あたりで降られて(早めに着いてぶらぶらしていた)ひやひやしたけれど、会場に着く頃には晴れてくれて一安心。

喫茶店で休憩も挟みながらゆっくりと二周して、欲しいものは買えた。今回は小鉢をいくつかと平皿の大きめのものを買うつもりでいたが、二周することで似たものが見つかってさてどちらがいいだろう?という検討もでき、先に通った時には設営中で話しかけるのをためらった作家の方とお話しすることもできた。収穫としてはとても大きかったと思う。

どんな風に包んでくれるのか分からず不安で、新聞紙や梱包材を車に用意していったが、どの作家さんもしっかり新聞紙で包んでビニールの手提げつき袋に詰めてくれた。なかには新聞紙+梱包材という方もあり、考えてみれば皆さんプロなのだから当然なのだけれど、安心した。
ただ、沢山欲しくなってしまうし手頃な値段のものも多いので笑 鞄はしっかり持てる収納力のあるものが良いと思う。私はマチがある程度あり、肩にかけながら抱えて持てるバッグにした。路面は普通に段差も多いから収納力があってもキャリーカートは絶対にダメだし、リュックは人混みの中で不安定なので前に抱えた方が良いと感じた。

そして思ったことが二つ。作家さんのブースとばかりではなく、業者のブースも多いというのが一つめ。200円とか500円とかで大量生産のお皿や湯呑みを売っていて、陶器まつりを事前に調べて持っていた印象とは違っていた。
blogやインスタ、ツイッターではおしゃれな器ばかりがクローズアップされるので、おしゃれで今っぽい雰囲気なのかなと勘違いしていたのだ。オッチャンオバチャンにご老人、屋台、かび臭いお店(通り沿いの陶器屋さんがこのときとばかりにセールをしている)。思っていたより昔っぽい場面も多い。

二つ目は、出展者の方の情報が全然ないということ。陶器まつり主催が出展者情報の載ったパンフを作ってほしい、とまでは全く思わないけれど(多分無理。公式サイトを見る限り、そういう面の企画運営力はなさそう)各出展者は品物を渡す時に何かチラシを同梱したり、看板を出してSNSアカウントを案内したりしてくれれば本当に助かる。看板を出しているところはあったけど、基本的にはどのブースも品物が並んでいる以外はアピールはなく(呼び込みはあるけど)友人に伝えるにしても目印がないのでとても分かりにくい。

話し掛けることが大前提になっているのだろうし、もしかしたらこの陶器市のカルチャーとして直接のコミュニケーションというのがあるのかもしれない。初めては戸惑うけど慣れていけば楽しみ方もチェックの仕方も分かってきてそれが良いとか。

しかし、実際、覚えていられないのだ。良かったなと思っても名前が分からず買い足せないとか、やっぱり悲しい。一見にも旅行客にも、もう少しでいいから優しくしてほしい。




追記>>
車で行ったのでそのことと、思い出したことをつらつら書いておく。
祇園の近くに停めて1,200円だった。駐車場は8~9割埋まっている印象で、会場最寄は出展者専用になっているところもあった。私が行ったのは平日昼間だったからまだ良かったのではないかと思う(台風の影響があったのかは分からない)。開催日が土日にかかっていてしかも夕方だったら、駐車場を探してぐるぐるしたのではないかと。

10分程度歩くことを前提にして行けば、駐車場は結構見つかる。会場近くに停めたいとあまり欲張らない方がいい。


思い出したこと。
・子供連れのお客さんをみてヒヤヒヤする場面がいくつかあった。親が器を見るのに夢中で、隣で子供があぶなっかしい手つきで陳列をいじっている(親は口だけといった感じで注意)など、恐くて見ていられない。
五条通沿いで入って休憩できる喫茶店は何軒か、多くはない。一番入りやすいのはサブウェイかもしれない。鴨川寄りにあったが景観条例のためか看板は控えめ。
・家に帰ってインスタなどで検索してみたが、見覚えのある器もSNS上ではかなり印象が違って見えた。アプリのフィルターや、場所・条件が違う(当日のブースをちょっと引きで撮っているか、テーブルセッティングして寄りで撮っているか)せいかもしれない。現地で自分の目で見なければ分からないことはここにもあるのかと、むしろ感心した。

なんでもない今日を生きていく、あたしらしく明日を生きていく

LIONのCMで、松崎しげるの「愛のメモリー」の替え歌を使ったものがある。

「企業広告【働く女性への応援歌】」
http://www.lion.co.jp/ja/products/cm/corporate/making/03.php

とてもいいCMだと思う。初見で素直にそう思い、なんともいえない感慨が胸に広がった。


女性の社会参画、昇進、出産や介護で休みを取りながらも働き続けることに、今はまだ問題が多い。男性社会から男女共存社会への道の中で生まれる軋轢を感じる。男性に問題がある場合も、女性に問題がある場合もあるけれど、男が悪い・女が悪いと互いに言い立てあって軋轢は根強く残っている。

しかし、軋轢は個々人に向かい合い、背景を理解して話を聞いたなら、ほとんどの場合解消する、あるいは軽くなると私は思う。
このCMは、社会は事情をそれぞれ抱えた一人ずつで成り立っていて、それぞれが喜びや疲れ、感慨を持ちながら毎日を生きているということを感じさせてくれる。家庭状況や財布の事情、性格や仕事の忙しさや恋路のあれこれを知っている自分の友人を「頑張れ!」と応援したくなる気持ちを、思い出させてくれるのだ。


ネットの匿名の意見では、たくさんの人をまとめて「女」とすると生まれる「ずるい」という思いや憎しみが溢れているように感じられる(男に対しても見かけるけれど、私が女なので割愛する。男性同様に感じることはできないので、とんちんかんになりそうだから)。
そんな人も、このCMを見て、知っている誰かのことを連想して感慨を持ったりしてくれたらいいなと、そう思った。


このCMを見て感じたことがもう一つある。
女性と男性は絶対的に違うということだ。
吊り革につかまって電車に揺られる女性にはけなげさを、座席で隣の男性に寄りかかられる女性には疲れを、帰宅後に歯磨きをする女性にはメイクという武装を解いた放心を感じた。
女性は装うことで鎧をまとうが、それによって疲れもする。男性にはないもので(良い悪いはない)それがこのCMをよりディテール感あふれるものにしていた。

 

 染み入るようなCM、ちょくちょくあるよな。
JTの「遊ンデイルヨウデ、祈ッテイル」とか、Amazonのライオンたてがみの犬のとか。iWatchの、セリフがないCMもいい。そういうのだけ集めたブルーレイがあったら欲しいなあ。

 

ひらく

私をわたしと、下さいをくださいといったように平仮名にすることを、ひらくと言う。

私は文章を書くのがそこそこ好きで得意なので、日記やなんかは長々色んなことを書く方だ。
そうすると否が応でも、どこをひらいてどこをひらかないかを考える。致します、有難う御座います、あたりになるとヤカラ気取りが一生懸命取り繕った丁寧文みたいに思えるし(ひどい言い方)、さらにレベルアップして其れ、此方、までいってしまうと厨二。

ひらくひらかないで今でも考えているのが、ほんとうという表記だ。
初めて意識したのはよしもとばななだったと思うが、あちこちでよく見る。ほっこりていねいなくらし、系でも見るし真面目に誠実に系でもよく見る。方向性としては支持しているのにその表記には抵抗があるなあと、ずっと思っている。なぜなんだろうと考えているわけだ。

ほんとうと書くより本当と書く方が、私には本当らしく感じられる。はっきりと言い切る時のスピードが乗っているように感じられるからだという一つの結論は出た。しかしほんとうと書く時の、立ち止まってしっかり考えた雰囲気も分かるんだよな。

発声すれば同じ聞こえ方をするものが、文字にする時の選択で違ったイメージになるのはどうしてだろう。私が好きだ苦手だと感じる根拠はどこなのだ。


なぜ、なぜと辿っていくことで原因を探るのが好きだ。だから自分がなぜ片方を好んで片方は好きでないのか考えるのは面白い。
ほんとうと本当についてはまだ結論は出ない。